理性だけでなく「身体知」を鍛えて想像力の限界を突破しよう

コラム

現代社会では、思考や言語活動が仕事や生活の中心となっている。

このような活動は、理性によるものだ。多くの人は、理性によって生活や人生全体をコントロールし、無意識のうちに「理性が自分自身のすべてである」と考えているのではないだろうか。しかし、理性とは脳の認識の働きの一部に過ぎない。実際には、人間の思考や感情、判断、性格などの多くの活動は、身体の状態に大きく左右されているのだ。

理性の曖昧さと身体の声

身近な例でいえば、病気の時には多くのことをネガティブに考えてしまうことがある。これは、身体の不調が思考や感情に直接的な影響を与える一例だ。また、理性というものは、実際には非常に曖昧なものである。たとえば、「食べ過ぎはよくない」と理性で理解していても、目の前の美味しい料理の誘惑に負けてつい食べ過ぎてしまうことが誰にでもある。理性は暴走しやすく、その一部は過食症や拒食症のような身体的な症状として現れることもある。

一方で、身体は嘘をつかない。不調や病気は、身体がどこか無理をしていることのメッセージであり、純粋な身体の欲求に従えば暴飲暴食に走ることもない。理性に比べて身体の声は小さく、派手さはないが、自分にとって本当に必要で正しいことを教えてくれるものだ。

理性を超える「身体知」とその力

もし、身体の状態が快適で、普段から感性が鍛えられていて、豊かな身体感覚を持っているなら、理性を超えた大きなインスピレーションやひらめきが生まれ、人生を豊かにすることができるだろう。あるいは、直面している問題が解決することも増えるかもしれない。このような、身体が高まることによる一種の知性を、私は「身体知」と呼んでいる。

しかし、現代の多くの大人、特にホワイトカラーのビジネスパーソンの多くは、理性の力が発達している一方で、「身体知」は非常に衰えていると感じる。これは単に筋トレやフィットネスに力を入れるだけでは改善されるものではない。感性や身体の多様な働きを日常的に豊かに使い、鍛えていかなければ向上しないのだ。

身体知を取り戻すことの意味

確かに、理性の力は現代社会において重要であり、社会のシステムは理性によってうまく秩序立てられている。しかし、理性だけではだんだんと社会全体や私たちの生き方にダイナミックさが欠けてしまう。効率的で便利な社会にはなるが、面白さや精神的な豊かさに欠けた世界になるのではないかと思う。

特に都会のビジネスパーソンには、豊かな感性の力や身体知が必要だと私は考えている。これらの能力が一人ひとり向上すれば、思いがけないビジネスや活動が社会に増え、いきいきと働く人々も増えるのではないかと期待している。

社会の硬直的な「理性の支配」を超えて

現代の社会では、「仕事がつまらない」「やりがいがない」と感じる人が多いように思える。その背景には、経営者や社会のリーダー的な立場にある人々が、理性によって「こうあるべき」「これこそが豊かさである」と硬直した考えを持ち、社会を運営していることがあるのではないか。

このような社会を打破するには、理性だけではなく、身体知や感性の力をもっと大切にすることが必要だ。これによって、新たな価値観や生き方が生まれ、より多くの人々が生き生きと働き、生活することができるようになると信じている。

「ひらめき兵法塾」で目指すもの

私はこのような背景から、都会のビジネスパーソンに対して、豊かな感性の力や身体知を取り戻すためのプログラムを提供している。これは単なる運動やトレーニングではなく、感性や身体の働きを意識的に鍛え、ひらめきやインスピレーションを得ることを目的とした「ひらめき兵法塾」という活動だ。

このプログラムを通じて、参加者が自己の身体知を高め、自分の内なるエネルギーを引き出し、人生や仕事に新たな視点や活力をもたらすことを目指している。社会全体に変革をもたらすのは難しいかもしれないが、一人でも多くの人が自分らしく生きる力を取り戻してほしいと願っている。

まとめ:豊かな感性と身体知で新しい価値を創造する

豊かな感性を活用するために、まずは自分を縛る「囚われ」を自覚し、手放していくことが大切だ。これは、これまで自己受容や自他分離として解説してきたものだ。

そして、それだけでなく感性や直感、身体知そのものを高めていくことも大事。理性に依存するのではなく、感性や直感まで活用できるようになることで、これまでにない想像力や、嘘のない行動、言動を行うからこその心のエネルギーが出てくる。

人間が行ってきた理性的な仕事は、今後AIやロボットが行うのだろう。であれば、このような時代だからこそ、感性、本能、直感などの力を高めていくことに意味があるはずだ。

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