「これからの社会で生き残るには」といった問題意識から作られたコンテンツが多い時代です。本屋でビジネス書・自己啓発系の本棚やビジネス系のウェブメディアを見ると「生き残る」「サバイバルする」といった表現は多く目につきます。
普通に考えると、私たちが現代の日本社会で生きていて生存の危機にさらされることはほとんどありません。普通の防犯をしていれば命の危険はほとんどありませんし、たとえ失業しても失業保険や生活保護があり、餓死する可能性は低い社会です。
※もちろん福祉の網から零れ落ちて命を失う方もいらっしゃいますが、この記事のテーマとは異なるためここでは言及しません。
では、さまざまな本やネットの記事のタイトルに「生き残る」という言葉がつくのはなぜでしょうか?そこに含まれているのは、厳しい社会で落ちぶれず、自分のやりたいことができる生活を維持していくために「生き残る」といった意味でしょう。
当然ながら本当の命の危険のことではなく、社会でそれなりに生活していくこと、生活レベルを維持することを「生き残る」と表現しているようです。
このような考え方のことを、当サイトでは「社会サバイバリズム(生存主義)」と表現しています。
詳しくは本文中で解説していきますが、現代の日本社会は本当の意味での生存の危機は少ないにも関わらず、必要以上に「社会で生き残る」ために努力することが主張されています。そして、その漠然とした危機感を持って将来を悲観する人や、「生き残る」ために過剰に努力をして疲弊する人、心を武装する人も多いです。
このような社会サバイバリズムが浸透したのはなぜなのか、このような考え方はどう受け入れればいいのか、どう距離を取ればいいのか、この記事で解説します。
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社会サバイバリズムとは
冒頭でも簡単に説明しましたが、まずは社会サバイバリズムとはどういう考え方なのか説明します。社会サバイバリズムは造語であり、社会における生存主義(サバイバリズム)のことです。
生存主義とは
そもそも生存主義とは、危機的な状況を想定して生存を目指す考え方であり、たとえば核戦争にそなえて個人で核シェルターをつくるような人が持つ考え方を、生存主義といったりします。
確かに核戦争が起こって世界中に核ミサイルが降り注ぐような危機は、絶対に起こらないとはいえません。しかし、このような「可能性がゼロではない」という危機をすべて想定していたら、まともな社会生活は送れません。
アメリカの映画には、よく生存主義から特殊な生活をしているような人物が(多くは変人として)登場します。たとえば、ブルースウィリス主演の「RED」に出てくるジョン・マルコヴィッチが演じる役がそうですし、「10 クローバーフィールド・レーン」という映画は、最初から最後まで核シェルター内で場面が展開します。
人間は戦乱、災害のような災禍によっても、病気や事故によっても、簡単に命を失う存在です。そのため、どのような人にとっても自分の命は惜しいもので、生存主義的な考えがまったくない人はいないでしょう。
しかし、これから起こる可能性が「あるかもしれない」というあらゆる危機を想定して準備しようとすると人生が楽しめません。極端にいえば、外に出ることすらままならなくなります。そのため、強すぎる生存主義は人生を制限してしまいます。
社会を危機的な場と考える思想
当サイトで社会サバイバリズムと表現しているのは、社会という場において生存主義的に考える考え方です。おおまかに定義すれば、社会サバイバリズムとは、社会生活で落ちぶれないために、危機を想定して準備、努力をする思想といえます。
そこで前提とされているのは、下記のような考え方です。
- 社会は危機的な場であり、生き残る努力をしなければならない
- 社会は生存競争の場であり、命を失うまではいかなくても社会的な「死」のようなものがある
- 社会で「生き残る」には、他者に負けないスキルや知識、経験を得る努力をするべきである
このように、社会で生き残るのは大変なことであるため過剰な努力や他者との競争をして勝ち抜かなければならない、といったことを前提に多くのビジネス書や記事が書かれています。
このように、社会で「生き残る」こと、そして生き残るために準備、努力をする思想が社会サバイバリズムであるとここでは表現しておきます。
社会はサバイバルするような場なのか
なぜ日本のような安全なはずの社会を、このような殺伐とした場であると考える人が多いのでしょうか。社会は本当に危機的な場であり、生存競争の場なのでしょうか。
前述のように、そもそも現代の日本社会では、失業して無職になっても病気になっても、それを理由にただちに餓死するようなことはありません。そのため、日本社会で、ただ生存するだけならそれほど難しいことではありません。
一方で、確かに1980年代以降の日本は特に新自由主義(ネオリベラリズム)の影響が色濃い社会になり、労働環境は競争的になり、より多くの成果を出すこと、より高い能力を示すことが求められるようになりました。また、社会的・経済的な落伍者に対する差別意識も強まったのではないかと思われます。
そして命を失うことは少なくとも、経済的な落伍者になり、そこから這い上がることが困難な社会へ、という方向では発展してきたように思われます。
日本社会で社会的・経済的な落伍者になると、下記のような結果を招くと思われがちです。
- 経済的な困窮で自由な消費活動ができない
- 低収入の仕事にしかつけなくなる、キャリアが断たれる
- 親族、旧友、元同僚などから白い目で見られる
- 「かわいそうな人」「落ちぶれた人」と見られる
- 結婚、恋愛ができない、子どもが作れない
このような生活は多くの人にとって避けたいものですから、そうならないために、つまり「生き残る」ために準備や努力を怠れないという思想が蔓延しているようです。
日本社会における「働いてないこと」への差別意識は強く、いまだに「働かざるもの食うべからず」的は規範も強いです。また、若く、元気なのに正規雇用で働いていなければ、やはり「下」に見られがちです。
日本はある意味村社会的で「人様の目」を気にする社会ですので、落ちぶれずに「生き残り」たいという思いを持つ人は多いのでしょう。
実態としてはそれほど厳しい社会ではなく、社会的・経済的な成功を目指さなければそれなりに生きていける社会ではあります。しかし、その実態以上に「社会は厳しいものである」というイメージが膨らみ、平均以下の生活になることを恐れる人が多いようです。
換言すれば、日本社会における社会サバイバリズムは、リアルな生存の話ではなく、労働に対する規範・道徳的な価値観から生まれた「社会の厳しさ」をバックグラウンドに発展した考え方です。ある意味で、社会サバイバリズムは日本特有の労働観によってつくられたものである、ともいえます。
社会サバイバリズムによる個々人の生き方への影響
社会サバイバリズムと表現できる日本の「厳しい」労働観は、私たちの生き方を下記のように縛ります。
漠然とした不安・焦燥感が消えない
社会が危機的な場、生存競争の場であると捉えるなら、そこで働く人たちにとって社会は安心できる場ではありません。
気を抜けば競争に負けて出世できなくなる、同僚に出し抜かれる、競合他社に市場を奪われる、キャリアを断たれる、スキルや知識が時代遅れになり仕事がなくなる、といった可能性があるなら、いつも不安や焦燥感にかられてしまいます。働くことはひたすらつらくなってくでしょうし、そんな怖い社会には参加したくないと「引きこもり」になる人も増えるでしょう。
また、頑張って働いてもストレスから心身を病み、労働市場からの退出を余儀なくされる方も多いです。
社会を「厳しく」捉えすぎる労働観は、多くの人の心に悪影響を与えます。
落ちぶれないために過剰に努力する
社会で生き残り、漠然とした不安や焦燥感を払しょくするために、過剰に努力する人も多いです。
たとえば、ただでさえ仕事で忙しいのに将来のためのスキルアップに余暇を費やし、気づけば四六時中仕事のために生活しているようなケースです。
また、労働市場に入る前の学生時代に、より高い学歴を身につけるために努力したり、就活で有利になれるようにサークル、部活、ボランティア、起業などの勉強以外の活動にも精を出すような努力も見られます。
学生も社会人も、社会で「生き残る」ために能力や知識を身につけ、他の人が持たない魅力を身につけ、社会に求められる人間であろうと自分の商品化を進めてしまいます。
このように社会人や学生に過剰な努力を強いるのは、それが新たな市場・ビジネスになっているためでもあります。つまり、社会で「生き残る」ことは大変だと煽ることで、新たなビジネスチャンスをつくり出しているということです。たとえば、投資、副業、ビジネススキル、転職、新聞・ニュースメディアなどは、ビジネスマンの「生き残り」のためにやるべきである、といった広告をよく出しています。
心を武装して自分を守ろうとする
社会が危機的な場、生存競争の場であるならば、個々人の社会でのふるまいは闘争に近いものになります。
一昔前は、まさに社会は戦いの場であり多くの人がバリバリと働くことが「正しい」とみなされていました。「24時間戦えますか」という言葉が流行語大賞になった1989年はバブル崩壊前夜といえる時期で、まさにビジネスマンたちは国内でも海外でも戦うように働き、そのスタイルが称賛されていました。
戦いの場であるなら、あなたの心はどうなるでしょうか。多くの人は、他者に社内で、競合他社との間で、自分のビジネスの市場で、転職市場で出し抜かれまい、負けまいとして心を武装させるのではないでしょうか。
確かに、人生において戦わなければならない場面もあるでしょう。しかし、人間は常に戦っていられるような設計にはなっていません。緊張する場面があればリラックスできる場面もある、という波があることで自律神経が正常に働き、心身の状態を回復させることができます。
常に緊張していれば常に交感神経が興奮状態に置かれるため、副交感神経が正常に働きません。つまり、体が回復過程に置かれないため、徐々に活力が落ち、内臓が侵され、疲労が溜まり、心の病や体の病に侵されるようになっていきます。どんなに元気で体力がある人であっても、リラックスや休息の時間が不十分なら必ずどこかで限界が来ます。
つまり、毎日が戦いなら多くの人が心身を病むことになります。
さらに、心を武装していれば、どのようなことでも自己中心的に考えて行動するようになってしまいます。他者を自分のお金、成果、時間を奪う存在であるととらえてしまい、少しでも自分の持つものが減ることを避けたがります。また、他人を都合よく動かし利用して自分のお金や時間を節約しようと行動してしまいます。
他人との関係はギスギスしたものになり、人間関係から孤立し、自分の心も荒んでいきます。他人と心が繋がる時間がなければ、物質的な消費活動に依存することにもなります。
他人と健全な関係を築いていくためには、心の武装を解かなければなりません。自分を守るのではなく他人を守る、自己利益より他人の利益も考える、人のために時間や手間をかけて行動する、といったことをしなければ、他人との関係性は発展しません。
社会サバイバリズムから距離を取ろう
社会サバイバリズム的な考え方を強く内面化していれば、過剰な努力によって、もしかしたら人よりも社会的・経済的に成功するかもしれません。しかし、それで人生は豊かになったといえるのでしょうか。
収入・資産を増やし、ビジネスマンの間では評価される成果を得たとしても、他人との関係はギスギスし、心は荒み、孤立していく人生でいいのでしょうか。
いつも頭の中が「よりお金を得ること、成果を出すこと、効率的に活動すること、生産的に行動すること」で占められていれば、すぐに役には立たない、収入を増やすことに繋がらないような趣味、読書、遊びに時間を使ったり、家族のために労力を使ったりすることを楽しめなくなります。
人間の人格は一つに統合されていますので、仕事とプライベートを完全に分けることなどできません。また「若いうちは競争の場で戦って、老いてからはプライベートを楽しもう」などと思っていても、若いうちに人格の成長・成熟は方向づけられてしまいますので、老いても人生は楽しめない状態になるでしょう。
重要なのは、社会サバイバリズムという考え方があることやその問題点を理解し、自分がどの程度この考え方を内面化してしまっているか、まずは内省してみることです。
参考▶資本主義社会で自分の生き方を貫くための方法(1)内省する
その上で、自分が身につけてしまった価値観を手放せるように意識し、生活していくことが大事です。
参考▶資本主義社会で自分の生き方を貫くための方法(2)手放す
一人ひとりが社会の捉え方を修正し、社会を過剰に闘争的な場だと考えず、時には協力しあえる場だと考えられるようになれば、社会はよりよくなっていくはずです。逆に、一人ひとりが自分のことしか考えず自己中心的な行動しかしなくなっていけば、資本主義的な意味での発展はあるかもしれませんが、個々人の人生の質は豊かにならないでしょう。
現在の資本主義のシステムは、社会全体の資本を増やすことはできても、個々人の内面的な成長や豊かな人生、人間関係の質の向上には向いていないのです。
日本では、資本主義的なシステムに対する信頼がいまだに根強いように感じます。経済活動を頑張れば社会も個人も豊かになる、というのは思い込みです。現代の社会のシステムの問題点を知り、個々人の精神の問題を知り、一人ひとりがよりよい人生や社会をつくる努力をする必要があります。
漠然と社会のシステムを信頼して行動するのではなく、健全な懐疑精神を持って人生や社会を再検討し、自分で自分の人生のハンドルを握って行動していきましょう。
まとめ
この記事の要点は下記です。
- 社会サバイバリズムとは、社会を生存競争の場だととらえて、そこで生き残るための準備や努力をやらなければならないと考える思想
- 日本社会でのサバイバリズムは、実態以上に社会を厳しいものだとイメージし、落伍することを過剰に恐れる労働観から生まれている
- 「生き残ること」を煽ることで消費させるビジネスも多く、この広告的な影響からも社会サバイバリズムが強まる
- 社会サバイバリズム的な価値観を内面化していると人生が豊かにならないため、見直すことが大事
社会をリアルな実態をありのまま捉えることも必要です。自分の経験から色眼鏡で見てしまい、過剰に厳しい場だと思い込んでいる可能性もあります。
人間は主観と客観の二重性で生きる存在ですので、主観を見直すことも意識してみてください。
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