「怒り」という感情と「悲しみ」という感情は混同しやすいです。ある出来事に対して怒っていると自分で思っていても、実はその根源に悲しみがあることは少なくありあせん。
むしろ、すべての怒りの根源には悲しみがあります。
一方、怒りと悲しみは完全に分けられるものでもありません。どちらも「頭の中で描いている認識(主観≒イメージ)」と「客観的な現実」とが一致しないことによる不安定な感情です。つまり、主観と客観の不一致が感情の揺れ動きになる、という人間の認識の原則から生まれるのが怒りや悲しみなのです。
したがって、それらを区別し、客観的世界をありのまま見て取る力をつけることが大事です。客観的世界をありのまま見て取ることができれば、感情の揺れ動きに悩まされたり、怒りや悲しみから表現を間違い、他人を傷つけたり人間関係のトラブルへと発展させてしまうことは減っていきます。
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怒りと悲しみの違い
まずは怒りと悲しみの違いについて説明します。
怒りとは
結論からいえば、怒りとは自分を守るためにファイティングポーズを取るための感情です。
怒りの感情が出てくる状況をイメージしてみましょう。たとえば、下記のような状況です。
- ①駅で歩いていて、前をよく見てない人にぶつかられた
- ②知らない人に突然押された、殴られた、などの暴力
- ③自分のミスじゃないのに上司から怒られた
- ④部下が指示していた仕事をやってなかった
このような状況では「自分が他人の行動によって傷つけられ被害者になった」という思いから怒りの感情が発生します。特に、①、②のような状況では、他人が加害者で自分が被害者という構造が明白であり、その加害者にあたる人に対する怒りが出てきます。なぜ、自分がこんなことをされなければならないのか、という理不尽な出来事に対する怒りです。
このような怒りを感じたときのことをイメージしてみましょう。怒りという感情は突発的で、一気にわきあがってくるものです。この突発性が怒りの感情の特徴です。
そして、怒りの感情は、本来なら放っておけば冷めていく一時的な感情でもあります。
※「怒りが持続する」と実感する人も多いでしょうが、これはまた別の問題ですので別の機会に説明します。
また、実はより根っこには悲しみがあり、悲しみが一次感情であり、怒りは二次感情でもあります。
悲しみとは
悲しみとは、現実に対して「こうであってほしい」という希望が裏切られた場合の、希望(イメージ)と現実の不一致による揺れ動きの感情です。
悲しみを感じたときのことを思い出してみてください。悲しみの感情は心の深いところにあり、自分でも気づけないことが多いです。怒りという突発的な感情に隠され、深い悲しみには気づけないままでいることも多いのです。
また、悲しみは怒りよりゆっくりした時間軸の感情です。悲しみを感じるのは、怒りが覚めて時間が経ってからですし、また怒りのようにすぐに冷めることなく持続します。
そして、怒りの根っこには悲しみがあることを理解することも大事です。
先ほどの例でいえば、①、②のような状況では「理不尽な目にあって悲しい」「自分の存在が軽く扱われているようで悲しい」という感情が根っこにあります。そして、自分の存在を守ろうとして怒りの感情が爆発し、その怒りのエネルギーで加害者に対峙しよう、戦おうとファイティングポーズを取っているのです。
これは③、④のような、直接的な被害を受けてない状況でも同じです。人から怒られたり、人が自分の指示に従ってくれなかったりしたときに「自分の存在が軽く扱われている」という悲しさから、防御反応としての怒りの感情が出てきます。
つまり、怒りとは自分を守るためにファイティングポーズを取るための感情といえます。
怒りと悲しみをまずは理解すること
「自分の存在が軽んじられている」という危機に対して、自分を守るために怒りが湧き上がって戦おうとする。そして、危機が去れば怒りは鎮まり、また平静に戻るというのが本来の人間の感情のあり方です。
そのため「怒りがコントロールできない」とお悩みの方も多いと思いますが、それは自分が軽んじられる悲しさを感じていること、そしてそれに対して自分で自分を守ろうとしているということなのだとまずは理解しましょう。
あなたのまわりに怒りっぽい人がいれば、その人は傷つきやすく常に自分を守ろうとしている人なのだといえます。また、多くの攻撃性は傷つきやすく自分を守りたい人から出てくるものです(もちろんそれ以外の攻撃性もあります)。
とはいえ、怒りや悲しみという感情に振り回され人間関係のトラブルを招くなら、何とかしてコントロールしたいと思われるでしょう。
しかし、自分の感情をコントロールすることは基本的にはできません。できるのは、感情が表に出るのをコントロールすることだけです。これは抑制・我慢であり、それを続ければ疲弊し病みます。
そこで大事なのは、感情自体をコントロールしようとするのではなく、感情以前の仕組みを理解しておくことです。
怒りと悲しみの根源にある現実とイメージの不一致
怒りは悲しみという感情自体をコントロールすることはできません。人間はロボットではないため、スイッチをオフにすれば感情もオフになるということはありません。しかし、結果的に怒りや悲しみに振り回されなくなることはできます。
そのために大事なのが、怒りや悲しみという感情を認識から理解することです。
イメージと現実の不一致で感情が揺れ動く
先に結論を述べれば、怒りや悲しみは主観(認識≒イメージ)と客観(現実ありのまま)の不一致による、感情の揺れです。
そもそも、人間は主観的な世界と客観的な世界に二重に生きる存在です。詳しくはこちらの記事に書きました(参考:生きやすくなるために「主観」と「客観」を区別する)が、簡単に説明します。
そもそも人間の思考や感情の活動をまとめて認識といいますが、個々人の認識には限界があります。一方、現実の世界は無限の物事が存在し無限の多様性を持っているため、人間の認識は現実を正確に捉えられません。これが人間の認識が持つ根本的な問題です。
それゆえ、人間は現実の不正確な反映像を頭に描きそれをもとに行動します。これが主観(認識≒イメージ)です。
主観(認識)は不正確な映像ですが、客観(現実)とある程度一致していれば問題なく過ごせます。つまり、頭の中に思い描いているイメージと現実が大体一致していれば、人は平静を保って生活できます。
感情が揺れるのは、この頭の中にあるイメージと現実が一致しないときです。
たとえば「メガネを机の上に置いたはずなのにそこにない」場合、イメージと現実の像が一致しないために動揺し「どこだろう?」と探し回ります。これが主観(イメージ)と客観(現実)の不一致から起こる感情の揺れです。
イメージと現実の不一致による怒り・悲しみ
怒りや悲しみという感情も同じく、イメージと現実が一致しないことによる感情の揺れ動きです。
たとえば、冒頭の例「自分のミスじゃないのに上司に怒られた」という理不尽なケースでは「自分はミスをしてないから怒られないはず」というイメージと「怒られた」という現実が一致しないことから、理不尽だ、こんなはずじゃない、という怒りの感情が湧き上がります。
「指示したのに部下が仕事をしてない」場合は「指示したから仕事をしてくれているはず」というイメージと「仕事をやってなかった」という現実の不一致から、感情が揺れます。
このような例はまだ分かりやすい例ですが、冒頭の例の①、②はどうでしょうか。知らない人にぶつかられたり、押されたりしたときの怒りがどういうイメージと現実の不一致だと思われるでしょうか。このようなさまざまなケースで、怒りがすべてイメージと現実の不一致だと考える癖をつけることが大事です。一度考えてみてください。
①の答えは下記になります。
「知らない人にぶつかられた」場合はいくつかのイメージのパターンがあることが考えられます。
1つは「相手がわざとやったんだろう」「自分がまっすぐ歩きたいがために、邪魔な人を押しのけているんだろう」「人を攻撃してスッキリしたいんだろう」など、相手がわざとやったという加害性をイメージしている場合です。実際には「相手も押されてこちらにぶつかった」「人ごみでそういう動きしかできなかった」「病気でフラフラしていた」などさまざまな可能性が考えられますが、攻撃されたという思い込みから怒りを持ってしまうことがあります。
もう1つは「人ごみでもみんなぶつからずに歩けるはず」「外では誰にも迷惑かけずに動かないといけない」といった、より広い場面に関係する思い込みを持っているパターンです。「こうあるべき」という規範的な意識・価値観を強く持ち、他人も自分と同じ規範・価値観で行動しなければならない、と思い込んでおり、その規範・価値観から外れる行動を許容できず、怒りが湧きおこるものです。
さらに②のような暴力など、相手に明らかな加害性・攻撃性があり、こちらが一方的に被害者になってしまった場合では、下記のようなイメージと現実の不一致が起きています。
「自分は大事な存在である」「社会は平和で攻撃されたり、傷つけられることはない」「他人から攻撃されることはない」など、社会や他人に対するイメージ・描き方が、現実と一致しない場合に起こる怒りです。
このように、他人はこう動くはず(べき)、こう行動するはず(べき)、社会はこうであるはず(べき)というイメージ・思い込みが、現実に即していないために起こる動揺が怒りです。
イメージと現実が一致しないことは、基本的に人間にとって脅威です。
これは人間が今の脳の仕組みを獲得した進化の過程を考えると分かります。イメージと現実が一致しないとは、原始的な生活の中では「突然外敵があらわれた」「突発的な天災にみまわれた」といった危機的状況です。このような危機的状況でも鈍い反応しかしなければ、危機を乗り越えられず命を失います。そのため、イメージと現実が一致しないような危機的状況では、突発的に行動のエネルギーが湧く方が都合がいいのです。そのような個体が生き延びた結果、私たちはいまだにそのような機能を持っているのです。
ここまで来れば、悲しみも同じ認識の構造から生まれることが分かるでしょう。「こうであってほしい」というイメージ・思い込みが現実に裏切られることから人は悲しみます。
怒りとの違いは「こうであるべき」という規範的な価値観よりは「こうであってほしい」という希望があり、その希望が裏切られることから生まれるのが悲しみである、という点です。
怒り・悲しみとの付き合い方:客観的にとらえる力
怒りや悲しみに振り回されやすい人は、まず主観(イメージ)と客観(現実)を混同せず区別すること、そして主観を現実に合わせて修正することが大事です。
主観と客観を区別すること
自分が頭の中に描いている「他人はこう動くはず」「社会はこうであるはず」というイメージは、一種の思い込みに過ぎません。他人の心の中は分からないものですし、その他人の集合体である社会も自分の思い描いている通りには動かないものです。
しかし、人間は毎日同じような人と、同じような仕事や生活を共にして生活していれば、思い描いているイメージと現実が大体一致する生活になっていきます。そのため、自分の主観・イメージと客観・現実を区別せずとも何となく生活できてしまう状態になりやすいです。
怒りや悲しみに左右されるのは、普段と異なる状況が勃発した場合です。これまで描いていたイメージでは一致しない現実があらわれると、慣れない不一致から感情が揺れやすくなります。
逆にいえば、毎日異なる状況、異なる人、異なる仕事をして生活しているような人(たとえば旅人でしょうか)は、イメージと現実は違うのが当たり前であるため、感情は揺れにくくなるでしょう。
そのため、まず自分の持つイメージと現実は異なるものであることを理解し、その上で普段からイメージと現実を区別して考える癖をつけることが大事です。詳しくはこちらの記事に書いています。
また、可能なら普段と違う人と会う、違うことをやる、違う場所に行く、といった行動をしてイメージが裏切られる経験を積むこともやるべきです。
主観を修正する
怒りや悲しみは、主観・イメージが現実に一致してないために起こるものです。その原因として、前述のようにさまざまな思い込みや規範意識(こうであるべき)、価値観を無自覚に身につけてしまっていることがあります。
限定された、ある特定の場面でしか通用しない主観・イメージを持っている場合、それ以外の多くの場面でイメージが現実と一致しないことになりますので、感情が揺れやすくなります。
たとえば、まわりの大人が何でもいうことを聞いてくれる赤ちゃんは、主観と客観を区別しなくても生きていけます。しかし、大人になっても赤ちゃんのように「周りの人がお世話してくれる」「自分のご機嫌をとってくれる」「必要なことをやってくれる」「何もいわなくても、感情をくみ取ってくれる」などと思っていれば、常に怒り、悲しむことになるでしょう。
あなたのまわりに怒りやすい人がいたら、その人は赤ちゃんのように「思い込み」で世界を見ている人なのかもしれません。
もしあなたも感情が揺れ動きやすい自覚があるなら、感情が揺れたときに「自分は『他人が思い通りに動いてくれる』と思い込んでいたんだな」「他人に期待していたんだな」「社会はこうあるべき、と思ってしまってたんだな」と反省してみましょう。
とはいえ、人や社会に対する一切の思い込みを捨てて、自分の世界に閉じこもればいいというわけではありません。大事なのは、人間や社会をありのままに捉える、客観的な視点を持つことです。
客観的に世界を捉えられるようになれば、感情に動かされることが減るはずです。
まとめ
今回の要点は以下です。
- 怒りとは、主観と客観が一致しない感情の揺れによるもので、特に自分を守るために攻撃態勢を取ること
- 悲しみとは、希望が現実に裏切られた場合の感情の揺れのこと
- 感情に左右されないためには、現実をありのまま捉える力を養うこと
さまざまな感情の根っこには主観と客観の不一致に対する感情の揺れがあります。他の記事も参考にしてください。
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