現実の生活がある中で、自分の本心にどこまで従うことができるか

コラム

最近の記事で、私は欠乏感について書いてきた。

欠乏感とは、自分に何かが足りないと感じることであり、もっと多くの知識や能力、収入を得なければならないという焦りや不安の背景にあるものだ。社会から押し付けられた様々な規範や期待に応えるために、理性によって自分の本心を抑圧し、様々な知識や能力を身につけようとすることが多い。

そのため、この理性の抑圧から自分を解放することが必要なのだが、現実には「そう簡単にはいかない」と思われることも多いと思う。

現実的な制約と自分の本心

実際のところ、就職するため、もっと収入が必要なため、といった現実的な理由から、どうしても社会から求められる「成長」「生産性向上」「変化」といった価値観に合わせなければならないことも多い。

理性の抑圧を捨て、自分の本心に従うことが重要だと考えていても、現実の状況では、それが必ずしも実現可能ではない場合もある。経済的な事情や家庭への責任、キャリアの必要性など、様々な現実的な制約がある中で、それでも本心に従うことがどれほど意味があるのか、疑問に感じることもあるだろう。

たとえば、常識を捨て去り、資本主義のしがらみから離れて地方での自給自足的な生活を選ぶことも一つの選択肢かもしれない。しかし、それが誰にでもできるわけではない。現実には、そのような選択肢がない人も多い。そんな中で、「理性の抑圧を捨てて自分の本心を捉えて行動すること」が、どれだけ現実的な意味を持つのだろうか?

本心に従うことと現実的な制約のバランス

この問いに対する答えの一つは、「本心に従うこと」と「現実的な制約」のバランスを取ることだと思う。私たちは、現実の中で生きていかなければならない以上、知識やスキルを身につけることは避けられないかもしれない。生計を立て、家族を養い、自分の将来を考えると、現実的な判断が必要になることは多い。

しかし、だからといって、理性の抑圧にすべて従い、自分の本心を無視し続ける必要はない。「0か100か」の選択をする必要はない。本心に従うということは、必ずしも全てを理想的な方向に変えることではなく、むしろ、現実の中で自分の心の声を無視しないでいることだ。

自分の本心を大切にしながら、現実に向き合う

たとえば、現実の生活の中で、ある程度の収入や安定が必要だと感じたとしても、その理由が本当に自分の望むものであるかどうかを考えることが大事だ。たとえば「日本の30代の平均年収は○○万円」と聞いて「それ以下だからヤバい」とか「それ以上稼いでるから安心」などと考える人は社会のモノサシに縛られ過ぎだろう。自分の本心に従って生きられていれば、年収が多少少なくても充実した生き方ができる。

お金や安定を求める気持ちは、社会の常識や他人の期待から来ているのか、それとも自分自身の心から湧き上がってくるものなのか。この区別をすることで、たとえ現実的な選択をせざるを得ない場合でも、自分にとって何が大事なのかを見失わずに済む。

現実の制約の中で本心に従うことは、たとえば仕事の選び方を変えることや、自分の価値観に合った働き方を模索すること、自分の情熱や興味に基づいたプロジェクトに参加することなど、さまざまな形で実現できる。大きな変化が難しい場合でも、小さな変化を積み重ねることで、自分らしい生き方に近づくことができる。

まとめ:自己受容の意義と小さな行動の積み重ね

自己受容とは、自分の本心に対して誠実であることを意味する。それは、ただ現状に甘んじることではなく、むしろ現実の制約を理解しながら、自分にとって本当に意味のあることを追求する姿勢だ。

「本心に従って大きな挑戦をしよう」「本心に従って、すべてを捨てて旅に出よう」という選択肢もあるかもしれないが、それだけが「本心に従う」ことではない。必ずしも大決断や大転換が必要なわけではない。

むしろ、日常の中の小さな選択の1つ1つにおいて「これは理性に縛られた行動だろうか、自分の本心に従うならどっちを選ぶだろうか」と丁寧に考えることが大事だ。その積み重ねで自分の本心を理解し、自分に対して誠実で、かつ現実とのバランスが取れた人生を歩めるようになるのだと思う。

、、とはいえ時には大胆な行動もアリだと思う。

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