世界に問題は存在しない。
正確にいえば、問題とは客観世界(物理的世界)には存在せず、私たちの主観世界(認識=頭の中)にしか存在しない。
具体的にいえば「地球環境問題」とは、私たち人間がつくりだしたもの。「気候変動」は地球で実際に起こっている事実といえるとしても、それを「問題」とみなすのは人間だ。人間にとって住みにくい地球になっているため、気候変動という事実が「問題」としてあらわれるのだ。
さらにいえば「問題」は一人の人間の頭の中にあらわれる認識の像であり、それはあくまで一人ひとりの頭の中に描かれるもの。その同じ像が社会の中で広く共有されたときに、それが一種の社会問題として立ち現れる。そして、その「問題」は解決しなければならないものとして、社会全体で考えられ、具体的な解決策が模索される。
このように、問題とはあくまで一部の人、個人が頭の中でつくりだすものであり「事実(客観)」をどう捉えるか、という捉え方の問題である。
問題とはギャップ
問題とは、端的にいえば現実と理想の認識(頭の中)におけるギャップだといえる。
「こうあるべき」「こうならないといけない」という理想、思い込み、正解などを頭の中に描いているために「その状態にない」という現実が「問題」になるのだ。理想を描くから現実が「問題」に見えてしまう。
だから「問題」なんてすべて嘘なのだ、解決しなくていいのだ、ということではない。
あくまで「問題」とは作り出されるものであり、私たちの認識(頭の中)の働き次第で変わるものである、ということが大事なのだ。
人間は問題をつくり出す存在である
人間は必ず問題を作り出さずにはいられない存在である。
そもそも、私たち人間は他のあらゆる生命体と異なる存在だ。人間と他の生命体との違いと共通点を洗い出していくと、最後に「人間の本質」が明らかになる。端折っていえば、人間とは認識的実在であるといえる(※1)。
つまり、人間は大脳を発達させるのと直接に認識という大脳の機能を発展させた。これは外界(外の世界=客観世界=身の回りの環境)を感覚器官から情報として受け取り、それを頭の中に像として描く能力のことだ(像とはイメージに近いもの)。そして、人間はさらに「問いかけ的認識」という認識の働きを持つに至った。
「問いかけ的認識」は、人間と動物を大きく区別する能力だ。これは、外界にあるモノに対して「これは何だろう?」「どうなってるんだろう?」と疑問を持ち、確かめようとする認識・脳の働きのことである。
これはつまり、現実と認識に「ズレ」が生じるということだ。現実をありのまま脳に反映するだけなら、そこに疑問をもって確かめる必要はない。しかし、人間は現実のありのままではなく、認識に「ズレ」を持つためそのズレを確かめようとする脳の機能を持つに至った。
さらに、人間は頭の中に描いた像を自由に変化させられるようになった。つまり想像力を持った。そのため、現実の世界とまったく関係がない像(イメージ、構想、計画、妄想)を描けるようになり、その頭の中に描いた想像の像に、現実を一致させようと行動できるようになった。
このようにして、現実と認識(頭の中)にギャップが生じ、それを解消しようとするようになったため「問題」をつくれるようになったといえる。
人間の認識・脳の働きの本質がそうなっているため、常に問題をつくりだしてしまうのだ。
問題は解決しなくてもいい
さて、これが人間が「問題」をつくりだしてしまう理由だが、人間は必ずしも作り出した問題を解決しなくてもいいし、時に解決しなくてもいいと思えるように努力してきた。
そもそも、人間の想像力は無限であるため、想像力によってつくられた問題を何でも解決できるわけではないし、むしろほとんどの物事は現実的な制約によって、理想通りの解決や実現はかなわない。もう何十年も前から「タイムマシン」の構想はSF小説などに登場しているが、実際には発明されていない。頭の中で想像できることと、現実で実現することはまったく別物だ。
そのため、人間は常に問題解決の方法を工夫し、理想を現実にする方法を模索する中で文明や科学を発達させてきたが、一方でたえず「問題を思い通りに解決できない」ことに悩んできた。
そのため「問題を問題として扱わない」訓練も行ってきたのだ。
私たちにとって最も身近なこの「訓練」の文化の1つが仏教だ。仏教は、人間が無限に頭の中で作り出してしまう無限の欲望(これが欲しい)、執着(捨てたくない、欲しい)、理想(こうしたい)などの認識を手放し、いわば問題や理想そのものをなくしてしまうという、心・頭の訓練である。そうすることで現実に「問題」を見出さなくなれば、今生きるこの現実で十分に満たされる。そして日本の禅は、その「問題を、問題化しない」訓練の究極の姿だろう。
「問題」は人間の認識(頭、心)がつくりだすものだからこそ、現実を変えようとせず、認識の側を変えることで「なかったことにする」こともできるのだ。
私たちの共通の問題とは
このように「問題」は、現実で解決しなくても私たちの頭・心の持ち方によって「なかったこと」にもできるのだ。
しかし、そうはいっても現実には解決しなければならない(と考えてしまう)問題がある。解決しなければ生きていけない、思い通りの人生を送れない、困窮する、など私たち個々人はさまざまな問題を抱えて生きている。誰もが修行僧のようにすべてを捨てて「問題をなかったこと」にはできない。
そのため、実際には「何を問題として扱い、何を問題としないか」が大事だ。いいかえれば「何を解決のための努力の対象とし、何を諦めて考えないようにするか」の選択だ。これは、個人の人生でいえば、自分の人生観次第で変わる。これは昔から人生論や幸福論として研究されてきたものだ。
しかし、問題には社会的なものもある。これは社会問題、政治問題などの形であらわれるものだ。これは、私たちが個人ではなく集団として解決にあたらないといけない問題のことである。このような問題も、最初は一部の科学者、政治家、経営者など一部の人、個人の頭の中で描かれるものだが、それが社会的に広がり共有され、私たち全員にとっても問題であると認識されるようになる。代表的なものはSDGsだが、これも最初は一部の人たちの頭の中で描かれた問題である、ということが大事だ。つまり、個人の主観的な認識の反映であるため、その問題を問題として描いた人の「何を問題として認識するか」といういわば「問題観」によって、問題が問題になる(問題として決まる)ということだ。
資本主義社会で儲けるために問題をつくる
少し話を具体的にしてみよう。たとえば資本主義社会で莫大な富を儲けるためには、何か問題や理想をつくり出す必要がある。その問題・理想を解決することで世界の何億人もの人のニーズを満たすことができれば、莫大な富を生むことができる。このような発想のもと発明されたのが自動車、飛行機、電話、医薬品、コーラ、コンテナ、パソコン、インターネット、スマホ、、などあらゆる製品・サービスである。ニーズを満たせば儲けられる、というのは資本主義の原則だ。
しかし、現代の日本を含む先進国の人々はある程度物質的に豊かになり満たされてしまった。これ以上おいしい食べ物や便利な家電がなくてもいい、と思うようになった。しかし、それでは大企業や富裕層はこれ以上儲けることができない。そのため、たとえばFacebookがつくられた。これは最初はマークザッカーバーグが大学時代に女子大生をランクづけるという下品なサービスとしてつくったものだったが、やがて「インターネット上で世界の人とつながる」という潜在的なニーズがあることが分かり、そこに特化して開発されたSNSだ。私たちユーザーは無料で利用できるが、個人情報や趣味嗜好がデータとして集められることで、広告を出稿する企業に大きなメリットがある。そのため企業から支払われる広告収入で巨額の儲けを生み出している。
NetflixやAmazonも、人々の潜在的なニーズを掘り起こして巨大なビジネスをつくり出した。
ここで注目すべきは、人間の欲望は無限であり「ニーズ」はつくりだされるということだ。「ニーズ」は「問題」の裏返しである。
昔の私たちは映画館やレンタルビデオ・DVDでも十分に映画を楽しむことができた。しかし、その映画配信をすべてネット上で格安に行うというビジネスがつくられれば、より簡便な方に導かれるように欲望がつくりだされる。
これを経営者側からみれば「映画館やレンタルショップに行かないと映画が観られない」という「問題」をつくりだし、その問題の解決に「ニーズ」があると考えてビジネスをつくったわけだ。人間の欲望は無限であり、問題はいくらでもつくり出すことができるため。
社会変革思想が持つ問題の側面
今、世界で巨額の儲けを生みだしている富裕層らは、過激ともいえる社会変革思想を持っている。宇宙、ロボット、AI、電気自動車、エネルギー、食糧などなど。旧来の在り方を抜本的に改革してより効率的に、スピーディーに、便利にと新たなビジネスを生みだそうとしている。
このような社会変革思想(=ビジネス)は、ニュース上では「問題」として扱われることは少ない。私たちの生活をより豊かにしてくれるようにも見えるため。しかし、いくつかの根本的な問題をはらんでいる。
①現実の物理的制約
どんなビジネスも現実の世界・自然環境への影響を及ぼす。AIのようなデジタルの世界での革命的な発展も、現実の電気エネルギー量の成約を受ける。宇宙産業のように巨大な規模でのリアルビジネスであれば、さまざまな材料、労働力、エネルギーを消費する。そして多くの人は実際には宇宙には行けない。一部の富裕層や企業のために宇宙開発が続けられる一方で、それがあたかも人類共通の「夢」であり「問題解決」であるといわれるのは歪だ。
②一般庶民の仕事・人生への影響
過激な社会変革がビジネスとして行われれば、私たちの生活にももちろん影響が及ぼされる。産業ロボットやAI、ドローンの開発によって、普通の工場労働者や一般事務として食べてきた人の仕事はなくなる。経済的には、産業構造が変われば労働者は成長産業へと移行するため、失業率は長期では戻るといわれるが、それは現実には厳しいものだろう。産業構造が抜本的に変わって求められる仕事やスキルが大きく変われば、リスキリングに膨大な努力が必要になり、個々人の適正を無視して仕事を変えないといけなくなる。大企業のために個人の人生は犠牲になる。
③人間の能力への影響
さらに、ロボットやAIが産業構造を変えて効率的にするほど、私たち人間は無能になっていく。人間の10倍、100倍の生産性を持つロボットやAIが登場すれば、人間は等しく無能になるのだ。そのため、残るのは人間にしかできないイレギュラーな仕事や感情労働だけになるかもしれない。仕事の種類が減れば、適正に関係なく仕事を選ばなければならない。よりハイスペックで魅力的な人が評価されるようになれば、社会の提示するモノサシ(評価基準)に該当しない人は無能扱いだ。また、実際に発達障害や精神疾患扱いをされ、社会にとってもっと有用になるように強いられる人も増えている。
もちろんこれらの問題を「問題として扱わない」ことも理屈としては可能だが、それは自然への影響や個人の人生の犠牲を無視するということだ。大企業による社会変革と富の創造こそ「善(いいこと)」であり、そこに待ったをかけるのは「悪」だと扱われる。この変革についてこれない人は無能だ、無知だ、「分かってないんだ」といわれてしまうのが今の社会だろう。
問題論のすすめ
このように、問題とは個々人の頭の中で描かれるものであり、そこにはその個人の主観(理想、思い込み、世界観、妄想など)が大いに反映される。そして私たちが気を付けないといけないのは、世界で力を持つ人の「問題」ほど社会全体の問題であるとみなされやすいことだ。難しくいえば「問題」の権力による偏在である。世界で「問題」とされていることは、その力を持つ個人(政治家・権力者や起業家、天才と扱われる人、科学者など)の主観でしかない、と割り引いて考える必要がある。
だからこそ、私たちは「何が問題として扱われているか」を本質的に捉えられることが大事だ。力を持つ人によって、勝手に「問題」がつくられていないか冷静に監視するために。身近なところでいえば、会社の売上が下がっているという「問題」が経営者によってつくられ、そのためにサービス残業が強制されるのはおかしいと分かるだろう。売上が下がっているのは経営者の問題であり、いち従業員の問題ではない。問題を勝手に背負わされ、誰かの問題が「私の問題」であるかのように、いつのまにか思い込まされていることもある。
また、私たち自身が何を「問題」として扱うか、しっかり定義できるようになるためにも「いかにして問題をつくるか(つくらないか)」を考える力が大事だ。どうでもいい問題を人生上の問題として無意識のうちにつくりだし、その問題の解決に躍起になって人生の一部を無駄にする、ということも起こりえるからだ。若いころにおったコンプレックスの解消のために人生を犠牲にするとか、社会的に押し付けられた「出世しなければ」「金持ちにならなければ」「自由に生きなければ」という価値観から、今の生き方を「問題」と扱い、その解消のために過剰に努力をしてしまうとか、そういうことが起こりえる。
私がこの記事で書いている問題論とは、問題とは本質的に何なのか、問題をどうつくるべきか・つくらないべきかを考えるための議論のことだ。この記事にそのあらましを書いているため、読者の方には何らかのインスピレーションになればと思う。
※1:人間は認識的実在であるとは、南郷継正氏とその門下生らによる研究によって導き出された定義であり、私はその認識学の知見に拠っている。
コメント