【勘違い力とは】他人の目で自分をジャッジしない生き方で楽になる

コラム

勘違い力を持つと生きやすくなる。

勘違い力とは、一言でいえば理性による抑圧的な思考をやめて、感性のままに行動する力だ。自分を他人の視点でジャッジしない力、ともいえる。

私たちは、何か行動や言動をするとき「自分の行動は正しいか」「私の言動は事実に基づいてるか」と自分でジャッジしてしまうもの。

他人の目から見ると、実力以上に自信過剰になっていたり、事実を勘違いして行動しているかもしれない、と恐れてしまう。これが自分の本心を抑圧し、自分の感情やエネルギーを素直に出せなくさせてしまう。

勘違いへの恐れとは「他人の目(モノサシ)」を過剰に内面化したがゆえの恐れといえる。

私たちは常に勘違いしている

そもそも、私たちはすべての事実を洗い出して、確実に成功する選択肢を取ることはできない。つまり、私たちは常にどんな行動を取るにしても、必ず何かを勘違いしているのだ。

そのため人間である以上勘違いは避けられないのであり、必ず起こしてしまう勘違いを過剰に恐れることは無意味だ。

恐れているのは勘違いそのものではない

あなたは一人でいるときに、誰にも迷惑がかからない勘違いをしてしまっても、恥ずかしさや息苦しさを感じるだろうか。おそらく感じないか、感じても人前ほどではないだろう。

本当に恐れているのは勘違いすることそのものではなく、勘違いしたことを他人に指摘されることなのだ。その恐れから「勘違いしないように」もしくは「間違わないように」と気にして、過剰な正解主義に陥る。

勘違いへの恐れはブレーキ・抑圧に

ここで知っておくべきなのは、勘違いを恐れることは自分にブレーキをかけることになるということ。また、自分の本心を抑えて「理性的」につまらない選択ばかりしてしまうことになる。

勘違いは不可避なのに、それを過剰に恐れて行動しにくくなってしまうのだ。

前回の記事で「3人の自分」という考え方を紹介したように、現代人の多くは「理性の自分」の声が強くなっている。そのため思考が得意になっている一方で、人目や世間体、常識や「こうあるべき」という思い込みに縛られ、勘違いを恐れ、自分の本心(=感性の自分)を抑圧しやすい。

しかし、自分の本心の抑圧を続けるとストレスになるだけでなく、自分らしく生きることができない。この抑圧を可能な限り取り去り、自分の本心に従って生きる力が勘違い力だ。

日本の真面目文化の限界

日本は長い閉鎖的な歴史の中で、独自の文化を熟成させた一方で、常識や規範を強く浸透させた社会だ。ルールを明文化しなくても、多くの人が常識に従って行動できるといわれる、モラルの高さにつながっている。

一方、これは強い「恥」の意識や、人の目による相互監視、同調圧力、「空気を読む」ことなどによる窮屈さにもつながりやすい。

社会の「モノサシ」を強く形成したからこその、いい面と悪い面がある。そして、社会が大きく変化している現代では、この「モノサシ」が悪い方に作用しているケースが増えていると感じる。個人の強さや個性が求められる一方で、強い常識の意識があることで板挟みになり、葛藤が生まれる。抑圧、強いストレスを感じる。

日本は物質的には豊かで、一部の他国のように治安や政治的な理由で弾圧を受けることはほぼない。しかし、常識、規範、社会のモノサシという精神的な面での抑圧が強いと私は考えている。

これが勘違いや間違いを避けようとする、過剰な正解主義になる。

内面化したモノサシを自覚し手放す

この社会の常識、規範、モラルといった「モノサシ」をまずは自覚してみよう。

私たちは長い時間をかけて、このモノサシを内面化してきた。そのため、それが社会から強いられた考えなのか、自分の考えなのか、区別しにくくなっている。そのため、自分のありのままの本心を探り、それとモノサシ(こうあるべき)を区別することがまず大事なのだ。

その上で、そのモノサシを手放すこと。手放すと、肩の荷が下りたように楽になると思う。

「でも簡単には手放せない」と思う人もいるだろう。そのような人は理性の働きが強すぎる。前回の「3人の自分」で書いたように、理性だけでなく、感性、本能の自分がバランスよく活動できていることが大事なのだ。

理性だけが強いと、理性によるコントロールで感性や本能が振り回されたり、抑圧される。その結果、感性のパワフルなエネルギーが使えなくなったり、本音が分からなくなったりする。

また、本能という生存の土台が弱くなり、理性や感性の力も土台から揺らいでしまう。そのため、理性の働きを一時的に弱める(瞑想など)と同時に、感性や本能の働きを高め、感じる時間を増やすことが大切だ。

「3人の自分」がバランスよく働くことで、理性をほどよく抑えて、本心に従って生きやすくなるだろう。

勘違い力を活用する

このように理性をほどよく抑えることで、いい意味での勘違いができるようになる。理性の力が強いと、勘違い、間違いを恐れて他人の目で自分の行動、思考を厳しくチェックし、ジャッジしてしまう。

これはダメ、あれは失敗する、とブレーキばかりをかけて自分らしく行動できなくしてしまう。しかし、冒頭でも述べたように、私たちの認識力には限界があるため、あらゆる事実を洗い出して正しく、正解の選択を選ぶことはできない。必ず何かは勘違して行動している。

それを「気にしているか、気にしてないか」の問題でしかない。だからこそ、勘違いを気にせず行動することが大事だ。間違いや勘違いへの恐れは、自分の思い込みで生まれるものだと知ろう。「他人の目(モノサシ)」というジャッジの視点を捨てれば「勘違い」は消えてしまう。

ただ無心になって自分にとってやりたいこと、正しいと思うことに取り組めるようになる。子どもが遊びに没頭するように、やりたいことにまっすぐに向かえるようになる。底にエネルギーの浪費はない。

勘違い力でまっすぐに生きる

「他人の目」で自分を見てジャッジすることをやめよう。

あなたの行動が勘違いか、間違いか、そんなことは今この瞬間には分かりようがないどうでもいいこと。そして私たちは「今この瞬間」にしか生きてないのだ。

勘違いを恐れない「勘違い力」を身につけて、今この瞬間を本音で生きよう。エネルギーの浪費が減って楽に生きられる。

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