最近は本屋にいっても、ネットで記事を読んでいても「あなたの生産性は?」「生産性を上げよう」と「生産性」という言葉が目につく。生産性とは個人が労働者として、一定の時間内にどれだけの仕事ができるかを測る指標と認識されているのだろうが、私はそんなもの気にする必要ないと考えている。
というか、なんと品のない言葉だろうかと思っている。
生産性とはただのモノサシ
仕事で出せる価値というきわめて限られた人間の側面だけを取り上げて、それがその人の価値であるかのようにいうのはどうなのか。「能力だけじゃなく人格も大事だよね」みたいな話ではない。人間という非常に多様な側面を持つ存在について、画一的なモノサシで価値を測るという機械的・システム的な考え方がおかしい。さらにいえばその考え方が「社会生活には必須で、自分でいつも意識してないといけない」かのようにいわれるのもおかしい。
自分で自分の価値を「生産性」などで測っていたら、自分という存在がわからなくなる。ちょっとした他人からの評価で傷つき、自信を失うだろう。逆に、ちょっとした評価で過剰に自信をつけて他人を見下すようになるかもしれない。簡単に他人のモノサシによって動揺させられてしまう弱い存在になってしまう。
そして、このモノサシの評価の中でもっと上に行けば楽になるのだ、自分自身がモノサシをつくる立場になるのだ、とすら思ってしまう。
生産性とは「全体」のために個人は犠牲になれという考え方
私が「生産性」などという言葉が嫌いなのは、私たち個々人が社会全体に対して、従属的な関係におかれてしまう言葉だからだ。
生産性のための自己犠牲
ニュースではよく「先進国の中では、日本の生産性が低い」などといわれる。普通の社会人からすれば「こんなに働いているのに、生産性が低いのか」と思われるかもしれない。そして「日本の未来は経済的に暗そうだから、私たちが生産性をあげないと」などと真面目な人は思うかもしれない。また、会社では「もっと一人ひとりが生産性をあげて会社の利益を増やさないと、あなたたち従業員の給与もよくなりませんよ」「会社が潰れるよ」などといわれるかもしれない。このように、社会や会社という「全体」のためには、個々人の生産性を上げないとだめだ、とプレッシャーをかけられてしまう。
そして、生産性を上げるためには、もっと頭を絞っていい仕事の仕方を考え出したり、もっと時間をついやして自分の能力を高めなければならない、と思わされてしまう。
そのため、仕事外の時間も使って情報収集や勉強につとめ、自分の「生産性」をあげようとする。そうして生産性をあげることが、昇進や転職時の評価につながり、自分の未来のためにもなるのだと考える。スキルアップや自己啓発に躍起になる。
「全体」に従属するな
さらにいえば、社会が、個人が、単一の価値観で測られてしまうことは全体主義につながる。全体主義とは簡単にいえばナチズムのようなものだ。当時のドイツは社会の変化で前近代的な紐帯(地域の共同体意識や親族のつながりなど)から個人が切り離され、恐慌も起こり、個々人は動揺しやすい環境にあった。その背景から社会を単一の世界観で説明し、行くべき方向を示す「強いリーダー」としてナチ党が台頭した。動揺しやすくなっていた個々人は「強いリーダー」についていきたい気持ちになり、その結果、きわめて悲惨な歴史をつくってしまった。
社会や会社が単一の価値観、世界観(モノサシ)を示し、それに個々人が強烈に引き付けられてしまうと、たいてい悲惨な結果を生む。それだけ人々が一丸になると強い力を出せるということでもあるが、社会から個性や多様性が失われてしまうと、そのモノサシが示すもの以外の可能性をつぶしてしまう。
「生産性」という呪いにかかった人
「生産性」などという言葉の呪いにかかると、自分の生活や人生がすべてそのモノサシによって測られる対象になり「生産性」につながらない行動は無価値であるかのように考えるようになる。そんな考え方は自分の人生を画一的なものにし、スポイルさせてしまうことも知らずに。
実際、私はそういう考え方を持つ人にたくさん会ったことがある。人の趣味や効率的ではない生き方を「そんな無駄なことをして何になるの?」「そんなことよりもっと稼げることをした方がいいよ」などと勝手にジャッジしてしまうのだ。自分のモノサシが絶対で、社会の常識であり、そこから逸脱する人はダメ人間だと思ってしまう。社会が生産性を求めているのだからそこに合わせるのが正解であり、そこから外れている人は馬鹿なのだと思ってしまう。「そんな生き方じゃ生きていけないよ」などと考えてしまう。逸脱した人には正しい知識を教えてあげないといけない、と余計な親切心すら持ってしまう。
「生産性」が人や社会をダメにする
私はむしろ「生産性」のような経済重視、効率性、成果重視の考え方は、日本全体から自由な思考や多様性を奪い、硬直的・保守的に考える人や企業を生みだす要因の1つではないかと思っている。
カレーライスを生産的につくろうと考えたらどうするか考えてみよう。自分の知っている食材で、自分の知っているつくり方でつくるのが一番生産的だ。自分の知る一番安いスーパーで、コスパのいい食材を買ってつくるのが生産的だ。そこに冒険、探求、逸脱はない。同じことの繰り返しか、せいぜい改善、アップデートでしかない。日本企業が好きな「カイゼン」である。
今のやり方を続けるのが効率的だし失敗がない。いいものをつくるなら、同じことの繰り返しの上でちょっとだけ工夫を加えよう、というカイゼン。それなのに、一方では「社会にはイノベーションが必要だ」などといっているのだからおかしい。
日本の社会全体のことを考えても、個々人が豊かに生きることを考えても「生産性」のような単一の指標をはかるだけのモノサシが幅をきかせるのはデメリットしかない。真面目な日本人はモノサシがあるほど、冒険、探求、逸脱できなくなるのだから。そんな社会で面白いものは生まれない。社会がつくったモノサシに合わせて生きていたら、人生にも面白いことは起きない。他人との関係はそのモノサシの尺度で「上か下か」で見てしまい、心からつながることができない。
人間の生き方に生産性も効率性もないのだ。人生は仕事とちがって「成果」ではなく「プロセス」である。今ここでした体験、出会い、思い、行動、無駄が人生だ。
生産性を重視する考え方は、いわば「無駄」の反対である。しかし無駄からしか生まれないものがある。「無駄」とは今のモノサシでは測れないということであり、モノサシそのものの正しさを揺さぶる可能性を持つものだ。そんなものがたくさんある社会や生き方の方が豊かであり、単一のモノサシに合わせた社会や生き方は貧しい。
生産性なんて気にせず生きよう。
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