エゴ中心の世界観から脱出して自由に生きる

コラム

個人主義・自己中心的な、エゴを中心とした世界の見方をしていると生きづらくなっていく。これを「エゴ中心の世界観」としてみよう。世界観とは、あなたが世界をどう見るか・捉えるか、というスタンスのことだ。

エゴ中心の世界観では、いわば常に自分という小さな箱の中に囚われている。「囚」という字の通り、いつも自分の認識という限界の中に閉じこもってしまう。一点から世界を見つめるため「支配する・される」「搾取する・される」「コントロールする・される」「他人に勝つ・負ける」「ヒエラルキーの上・下」「自分の能力が高い・低い」「個性や才能が豊か・個性や才能がない」といった視点で人生を考えてしまう。

このように捉えると、多くの物語、作品、本、人のサクセスストーリーなどがこの視点で構成されていることが分かると思う。

このような世界観、人間観で生きているとどれだけ頑張っても苦しい、もっと頑張らないといけない気がする、いつも自分に何かが足りてないと思う、頑張ってきたのに報われない、などで悩まされることになる。

エゴ中心の世界観の生きづらさ

このような世界観、人生観を突き詰めると、常に周囲の人に勝り、人を動かせる立場にいないと苦しいと感じてしまう。もちろんそのような生き方でトップにいけば楽かもしれない。しかしそんな人はほんの一部であり、大半の人は生きづらさ、窮屈さを感じながら生きることになる。また、自分がそういう世界観、人生観を無自覚のうちにでも持ってしまっていれば、同じようなエゴ中心の人が集まってくるのだ。

他人や社会がつくったモノサシ(常識や価値観)で自分を評価し、評価によって左右される動揺しやすい存在となる。そのモノサシに評価される以外に、自分の価値が分からなくなる。

エゴ中心の世界観の特徴は「支配・コントロール」「搾取」「自己中心性(自分さえよければ)」「能力主義」「孤立」「ヒエラルキーの意識」「競争や勝負」「画一的・固定的視点」としてあらわされるだろう。

ちなみに、このエゴ中心の世界観を変えないまま「もっと幸福になろう」と考え、人々にさらなる成長や努力を求めるのが自己啓発文化だと私は思っている。

関係中心の世界観

一方、これとは違う世界観、人生観もある。それを私は「関係中心の世界観(関係的存在としての自己)」ととりあえず定義しておく。

関係中心の世界観とは、自分を世界の中心であるように考えず、自然や歴史・文化、さまざまなレベルでの他人・社会とのつながり(関係)の中で自分を位置づける世界の見方のことだ。日本の古来の神道や仏教的な世界観に近いかもしれない。

「私」は「私」という存在だけでは説明できない。さまざまな関係性の一部として多面的に存在するものだ。そのため個人として他人に勝ろうとか、他人を支配しようという視点から離れることができる。「私」は「私」一人では存在できず、世界のあらゆる存在と複雑な関係を持ちながら存在できるのだ。

エゴという自己の執着や欲望を実現することは、私が関係を持つ壮大な自然や社会・文化のつながりにとって大した影響を持たない。「私」は自然や社会・歴史・文化の中で生かされる存在であり、大きな循環、流れの中で生きている。「私」だけが富(お金)、権力(人を動かす肩書や役割、立場)、能力、実績などを蓄積する生き方のむなしさが分かるはずだ。個人の人生などちっぽけなもので、短い人生の間で自分中心に生きたところで何になるのだろうか。

こう考えることで、自分が囚われていた他人がつくったモノサシや、自分で自分を縛っている「エゴ中心の世界観」という認識の限界(箱)に気づくことができる。

そして、そこから自分を解放し、自由自在に世界や人生のことを考えられるようになるのだ。

このような考え方の特徴は「生態系的」「循環や関係重視」「共生」「継承・伝承」「シェアや贈与」「多角的視点」「流動的関係」としてあらわされるだろう。

関係中心の世界観の特徴

この「関係中心の世界観」を簡単に説明しよう。そもそも、私たちは何十億年という歴史を持つ自然環境の循環、数十万年の歴史を持つ人類の社会・文化の循環の中で生きる存在だ。私たちはともすれば自分ひとりで生きているかのように思ってしまうが、私たちが生きることができているのは自然や人類社会の長い歴史が持続してきたからだ。そして、今の自然環境や社会・文化を後世にバトンタッチする役目も持っている。これが「縦のつながり」だ。

そして、私たちは今の時代の中で他人・社会との「横のつながり」も持っている。周囲の人や社会に対して価値を提供し、助け合いながら生きているが、それは仕事を通じた利害関係や身近な家族に対するものだけではない。自然や文化とも「つながり」を持ち、感じながら生きることができる。

そして、その「つながり」は実はとても豊かなものだ。この「つながり」をある一面から捉えてしまうと、私たちは資本主義の歯車であり、取り換えのきく脆弱な存在であるかのように自己認識してしまう。しかし、実は自然や歴史・文化ともっと豊かで多面的な「つながり」を持っているものだし、持っていくことができる。その「つながり」を豊かに認識できることが「教養がある」ということであり、教養があるほど自由に考え、生きることができるのだ。

関係中心の世界観の学び方

エゴ中心の世界観から、関係中心の世界観に視点を転換することは、人生観をひっくり返すような大きなインパクトがある。自分にとっての生き方や幸福の定義や視点がまったく違うものになるだろう。エゴ中心ではなく、心から他人のこと、社会のこと、未来のことなどを深く学び、考え、生きていきたいと思うようになるかもしれない。

ただし、この学びにはそれなりのステップが必要だ。関係中心の世界として世界を捉えられるようになることが大事で、そのためには弁証法と認識論という学問の学びが必須なのだ。

この学問については、またそのうち解説したい。

また、実践としては、たとえば自然や文化に関わる活動をすることが一つの方法になる。武道を学ぶことも同様だ。武道を学ぶことは、伝承されてきた技や思想という文化遺産を学び、未来につないでいく行為になる。過去、未来、歴史・文化とのつながりを感じ、大きな循環の中で「生かされている」ことが分かるようになるだろう。そうして生きるうちに、エゴによる凝り固まった、自分を閉じ込める「箱」を出て自在に考え、行動できるようになる。

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