このシリーズでは、4回に分けて「脳と自己」というテーマで、脳と意識、特に「私」という自己意識の関係について解説しています。
このような脳の理解は、ボディワークや運動を行う上でも、普段の姿勢や動きを楽にしていくためにも、大切なものです。
今回は「実は『私』という自己意識の働きは、思っているより小さなものかもしれない」ことについて書きます。
簡単にいうと、さまざまな体のコントロールはもちろんのこと、私たちが自分で行っていると思っている「決断」のようなものでさえも、実は「私(自己意識)」の仕事ではないのかもしれない、ということです。
「私」という自己意識の役割が「実はかなり小さなものなのかもしれない」と思えると、生きるのが楽になるかもしれません。
「私」とは何なのか
突然ですが、あなたとは「何」でしょうか。
もちろん、あなたの体の全体が「あなた自身」ではあります。しかし、さまざまな決断、選択をしたり、考えたり、「私はこういう人」だと思っているのは、あなたの体でしょうか?
多くの人は「頭」とか「心」だというと思います。もっといえば、それは「自己」という意識なのだと思われるかもしれません。
これは「自我」ともいえますね。
自我の成長
私たち人間は、生まれたてのころは「私=自我」という意識を持っていませんが、まず親と繰り返し関わり、親が周囲のものごとを指示してコミュニケーションを取る中で、物事を対象化できるようになります。
つまり、漠然とすべてを一体のものとして感じている段階から「お母さん」「ミルク」「おもちゃ」などを把握できるようになり、幼児になると次第にその対象化が自分へ向かい「自分」が分かるようになります。
そして、自他を区別できるようになり、精神的に成熟し、自我、つまり「私」という自己意識を育てていきます。
また、反抗期には他人の命令を拒絶することで、より強く自他を区別する中で自我を育てていきます。
自我とは意識
この「自我」とはもちろん、どこかに物体として存在するものではなく、脳の働きによって脳内に描かれる一種の像です。その人自身の記憶の蓄積をもとに、個性的な自我として描かれます。
そして、大人になってからの思考、感情、決断・選択などは、すべて自我と結びついて行われます。
そのため、私たちは普段のさまざまな選択や決定を「自分自身の考えに基づいて行っている」と思っています。いわば、私たちは一人ひとりが自由意志にもとづいて、物事を決定しているということです。
しかし、実は私たちは「自分自身の意思で決定しているわけではないのかもしれない」という有名な実験があります。
意思決定のタイミング:ベンジャミン・リベットの実験
私たちの「自由な意志」という感覚に疑問を投げかけたのが、ベンジャミン・リベットの有名な実験です。
実験の概要
被験者は、好きなタイミングで「手首を曲げる」よう指示されます。このとき、脳波を測定して「行動の準備」を示す準備電位がいつ発生するか、そして被験者自身が「動かそう」と意識した瞬間はいつかを記録しました。
衝撃的な発見
常識では「動かそうと意識する」→「脳が準備する」と考えがちですが、結果は逆でした。
脳の準備電位は、本人が「動かそう」と意識する約0.35秒も前に発生していたのです。つまり、私たちの意識が「やろう!」と決めるより先に、脳が無意識のレベルで行動の準備を終えていることを示唆しています。
このリベットの実験結果やその解釈には、さまざまな意見があります。
しかし、私たちの「自由意志による決定」の多くの部分が、実は無意識の脳の働きと関連していることは確かだと思います。
「私」という脳の働きについて
そもそも、前回の記事で解説したように、私という自意識は主に前頭前野が中心となった働きによるものだと考えられます。
無意識下の働きの重要さ
前回も書きましたが、私たちは体の働きの大部分を無意識下で行っています。
たとえば、内臓の働きは自律神経という自動操縦にほぼ完全に依存しています。また、運動のコントロールのほとんども大脳基底核が中心となった「手順」の働きや、小脳の「自動化された回路」によって行われています。
さらにいえば「アイディアのひらめき」や「ふと思い出す」といった思考や記憶の働きも、自分の意識で起こせるものではありませんね。
このように、体のコントロールだけでなく思考や記憶という理性に関わる部分も、多くは無意識に行われているのです。
私・自我・自意識の働きとは
では、私たちの自我、つまり意識的な思考などは何をするものなのでしょうか。
「私」という自意識、自我というものは、前頭前野が中心となった働きといえます。私たちが脳内で一人会議をしたり、何かをよく考えて決めたり、計画を立てたりしているときに、主にこの前頭前野が働くのです。これが「自我・自意識」といわれるものの、大部分だと思われます。
ざっくりいえば、意識の上にのぼる「私」とは、前頭前野が中心となった働きなのでしょう。
この働きの1つは、何かに注意を向けたり「こうしよう」と大まかな方向性を決めることです。
この注意や決断の背景には、無意識の働きもあるのでしょう。しかし、意識的に何かを決めたり、何かに注意を定めたりすることで、やはりまた無意識の働きもそれに従って動き出します。
いわば「監督」が「これ」と決めることで、「選手」である他の脳の働きが動き出し、その協働によってさまざまな思考、決断、行動が生まれていくということです。
「私」は思っているより優秀で大きな存在
ここまでをざっくりとまとめると「私」には二重性があるといえるかもしれません。
意識の上にのぼる、何かに注意を向けたり、言語化したり、理性的に思考する「小さな私」と、意識の上にはのぼらないが、あらゆる体の働きや思考の準備、サポートをすべて行っている無意識下の「大きな私」です。
「大きな私」は、複雑な体の内面のあらゆる制御から、複雑な運動・スポーツの動き、日常生活で習慣化されたあらゆる行動などを支えており、ほとんど間違いや問題を起こしません。優秀です。ただし無口で、普段は存在感がありません。
「小さな私」は常に脳内でしゃべり続け、多動で注意散漫、いろんな刺激に反応します。ここが意識の上にのぼるため自我という意識になり、この自我の方針によって「大きな私」も動員されます。
このように考えると「私」という自意識に少し変化が起こらないでしょうか。
私は脳を学んでこのようなことを理解し、
「無意識という『大きな私』にもっと頼っていいのだ」
「『小さな私』はもっと休ませていいのだ」
と思えるようになりました。
私たちは数十年の人生経験の中でいろんなことを習慣化・自動化し、物事をいちいち考えなくても処理できるように思考の大部分も自動化されています。これを結晶性知能ともいいます。
そのため、くよくよ考えたり、小さなことに悩んだりしなくても、実は多くのことを解決して正しい方向に行動できるものなのかもしれません。
さらにいえば、私たちの脳や体は数十万年の人類の歴史と、それ以前の5億年の生命の進化の歴史の結晶です。この進化の過程で複雑な生命維持の機能が自動化されたのですが、人類として「自我」をもったのは、せいぜい数万年か、数千年程度の歴史でしかないと思われます。
このように考えると、意識の上にのぼる自我の働きより、もっと無意識の働きに任せてもいいのだと思えませんか。
まとめ
私はこのような考え方を背景に、
- 考えることよりも「感じる」ことを重視
- 身体感覚や、体の自然な働き、連動を向上させる
というボディワークをつくり、指導させていただいています。
「ああしよう」という意識が必要な場面もありますが、それ以上に重視しているのが、無意識に行われる体の高度な機能を復活させることです。
この自然な体の働きが自然に出てくる状態が「自然体」だと考えています。その状態は、楽にパワフルに動けて、精神的にもリラックスできる状態です。
また、もう1つ大切だと考えているのが、ボディワークにおける瞑想的な脳の使い方(休め方)です。これは、いわば「小さな私」の無駄な活動を抑制し「大きな私」の働きを自覚する、もしくは活性化させる方法だといえるでしょう。
次回は、この瞑想についてDMN(デフォルトモードネットワーク)という脳の働きを中心に解説します。
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